江戸時代のカステラ文化
長崎からの伝来後、江戸の地でカステラはどのように受け入れられ、発展していったのでしょうか。西洋から伝わったこの甘い菓子が、江戸文化の中でどのような位置づけを得たのか、その歴史的変遷をたどってみましょう。
長崎から江戸へ — カステラの旅路
16世紀に長崎を通じて日本に伝わったカステラは、当初は「南蛮菓子」として珍重されていました。江戸時代(1603-1868)に入ると、長崎から江戸へとその製法が伝わり、上流階級の間で「高級和菓子」として広まっていきました。

当時の記録によれば、カステラは「卵入りの菓子」として珍しく、一般庶民にとっては手の届かない贅沢品でした。江戸時代中期の古典「守貞謾稿(もりさだまんこう)」には、カステラが「唐菓子の一種」として記載されており、その希少性がうかがえます。
将軍家に愛されたカステラ
江戸幕府の将軍家では、カステラが正式な贈答品として重用されていました。特に徳川家光の時代には、オランダからの使節が献上品としてカステラを持参したという記録が残っています。
将軍家への献上品として認められたことで、カステラは「格式高い菓子」としての地位を確立。江戸の菓子職人たちは、長崎から伝わった製法を基に、日本人の口に合うよう砂糖の量や焼き方を少しずつ調整していきました。
江戸庶民とカステラの出会い
江戸時代後期になると、砂糖の流通量が増え、カステラは徐々に庶民の間にも広まっていきました。「和菓子 歴史」を紐解くと、当時は「蒸しカステラ」という簡易版が庶民の間で人気を博していたことがわかります。これは現代の蒸しパンの原型とも言われています。
江戸の名所図会には、菓子屋の店先でカステラを売る様子が描かれており、「古典 菓子」としてのカステラが庶民の生活にも浸透していった様子がうかがえます。特に祝い事や特別な行事の際には、「江戸 カステラ」が用意され、その甘い香りが人々の記憶に残りました。

このように、カステラは江戸時代を通じて日本の食文化に溶け込み、西洋の菓子から日本独自の発展を遂げていったのです。その変遷は、日本人の器用さと創造性を物語っています。
長崎から江戸へ – カステラが辿った歴史的道のり
長崎の港から江戸の街へ、カステラが旅した道のりには多くの物語が秘められています。江戸時代、カステラは単なる異国の菓子から、日本の食文化に深く根付いていく転換期を迎えました。
幕府への献上品としてのカステラ
長崎から江戸へのカステラの伝播は、主に「献上品」としての役割が大きかったとされています。長崎奉行所は年に数回、将軍家へ珍しい異国の品々を献上する慣習があり、その中にカステラも含まれていました。史料によれば、享保年間(1716〜1736年)には既に定期的なカステラの献上が行われており、将軍家の菓子として珍重されていたことがわかります。
江戸庶民とカステラの出会い
最初は将軍家や大名家など上流階級の間でのみ楽しまれていたカステラですが、江戸中期になると次第に富裕な商人層にも広がりを見せます。「和菓子 歴史」を紐解くと、当時の菓子商が工夫を凝らし、日本人の口に合うよう改良を重ねていった記録が残っています。
特に注目すべきは、江戸時代後期に登場した「蒸しカステラ」です。オーブンのない日本の家庭でも作れるよう、蒸し器を使った調理法が考案されました。これにより「古典 菓子」としてのカステラは、より庶民に近い存在となっていきました。
文化的変容 – 和の要素との融合
江戸時代中期以降、カステラは日本の食文化に合わせた変容を遂げます。例えば:
– 砂糖の種類:白砂糖から和三盆や黒砂糖など日本の砂糖へ
– 風味付け:抹茶や黒蜜など和の素材を取り入れたアレンジ
– 食べ方:茶の湯の菓子として小さく切り分ける様式の確立

江戸の文人たちの日記や随筆には、「江戸 カステラ」を楽しむ様子が描かれており、当時の菓子文化の中でカステラが特別な位置を占めていたことがうかがえます。文化的には異国由来でありながら、日本の素材や美意識と融合することで、独自の発展を遂げた点が、カステラの文化史における最大の特徴と言えるでしょう。
将軍家も愛した高級菓子 – 江戸時代のカステラの位置づけ
江戸時代、カステラは単なる菓子ではなく、権力と格式の象徴でした。長崎から江戸へと運ばれたカステラは、その希少性と高級感から、将軍家や大名家といった上流階級に珍重されました。
幕府への献上品としてのカステラ
長崎奉行所の記録によれば、江戸幕府への定期的な献上品リストにカステラが含まれていたことが確認されています。特に正月や五節句などの重要な行事の際には、長崎から江戸城へ「御用カステラ」として届けられていました。これらのカステラは通常の10倍以上の価格で取引され、その価値は金一枚に相当することもあったとされています。
当時の文献『長崎見聞録』には、「唐菓子の中でも殊に珍重せられ、将軍家御膳に供せらるる」との記述があり、カステラが江戸城内で特別な待遇を受けていたことがわかります。
大名家のステータスシンボル
江戸の大名家では、重要な来客をもてなす際や冠婚葬祭の贈答品として、カステラを用いることが一種のステータスシンボルとなっていました。特に、薩摩藩や鍋島藩などの西国大名は、長崎との地理的近さを活かし、他藩に先駆けてカステラを入手する独自のルートを確立していたとされています。
興味深いのは、江戸時代中期になると、一部の大名家では専属の菓子職人を雇い、藩邸内でカステラを製造するようになったことです。『江戸 カステラ』の製法は厳しく管理され、その技術は家宝のように守られました。
町人文化への浸透
18世紀後半になると、江戸の経済発展に伴い、富裕な商人層にもカステラが広まりました。「和菓子 歴史」の中でも特筆すべき現象として、町人向けの簡略化されたカステラが登場します。これらは「町カステラ」と呼ばれ、本格的なカステラよりも手頃な価格で提供されました。

浮世絵師・歌川広重の「江戸名所百景」の一部には、カステラ屋の前に列をなす庶民の姿が描かれており、当時の人気の高さがうかがえます。また落語の演目「古典 菓子」にもカステラが登場し、江戸の食文化に深く根付いていたことを示しています。
文化学者の研究によれば、江戸後期には年間約1,000貫(約3.75トン)のカステラが消費されていたと推計されており、限られた高級品でありながらも、江戸の菓子文化に大きな影響を与えていたことがわかります。
和の素材との融合 – 江戸で生まれた独自のカステラアレンジ
江戸時代、カステラは単に長崎から伝わった形のままではなく、日本の食文化や素材と融合しながら独自の進化を遂げていきました。特に江戸の菓子職人たちの創意工夫により、和の要素を取り入れた様々なカステラのバリエーションが生まれたのです。
抹茶カステラの誕生
江戸中期には、すでに抹茶を練り込んだカステラが登場していたとされています。当時の記録によれば、茶の湯文化が発達していた江戸では、抹茶は高級品でありながらも広く親しまれており、菓子職人たちはこの日本独自の風味をカステラに取り入れることを思いついたのです。『江戸名物志』には「青みを帯びた風雅なカステラ」という記述が残されており、これが現代の抹茶カステラの原型と考えられています。
季節の素材を活かした江戸カステラ
四季を大切にする日本文化の影響から、江戸の菓子職人たちは季節の素材をカステラに取り入れる工夫も行いました。
– 春:桜の花を塩漬けにしたものを混ぜ込んだ「桜カステラ」
– 夏:ゆずや柚子の皮を細かく刻んで香りづけした「柚子カステラ」
– 秋:栗の甘露煮を混ぜ込んだ「栗カステラ」
– 冬:白あんを層にした「雪見カステラ」
これらは季節の移ろいを楽しむ江戸の風雅な文化を反映したものでした。特に、「大名カステラ」と呼ばれた豪華な品は、各藩の大名が江戸参勤の際に将軍家への贈答品として用いることもあり、その際には各地の特産品をアレンジした独自のカステラが作られました。
和菓子技法の応用

江戸時代中期以降、カステラ作りには和菓子の技法も応用されるようになりました。例えば、羊羹のように寒天を用いて固めた「寒天カステラ」や、求肥を挟み込んだ「求肥カステラ」などが考案されました。これらは西洋から伝わった菓子と日本の伝統的な和菓子の技術が融合した、まさに江戸独自の創造物だったのです。
文政年間(1818-1830)に書かれた『名物往来』には、「江戸の菓子職人の手にかかれば、一つの菓子も十の姿に変わる」と記されており、カステラもまた江戸の創意工夫によって多彩な発展を遂げていったことがわかります。これらの和の素材との融合は、現代のカステラアレンジにも大きな影響を与えています。
庶民の暮らしとカステラ – 特別な日の和菓子としての広がり
江戸時代初期、カステラは主に武家や上流階級のみが口にする高級菓子でしたが、時代が進むにつれ、その魅力は徐々に庶民の間にも広がっていきました。特に18世紀後半から19世紀にかけて、都市部の経済発展と共に、カステラは特別な日の和菓子として庶民の暮らしにも浸透していったのです。
ハレの日を彩るカステラの普及
江戸中期以降、商人や職人など町人文化が花開くと、祝い事や特別な行事の際に「ハレの日の菓子」としてカステラが用いられるようになりました。特に婚礼や節句、祭礼などの際には、小さく切り分けたカステラが振る舞われることも増えていきました。
古文書の記録によると、江戸時代後期には浅草や日本橋の菓子店で「風呂敷包み」と呼ばれる小型のカステラが販売され、庶民でも手が届く価格帯の商品が登場していたことがわかっています。こうした商品は、手土産や贈答品として重宝されました。
庶民の暮らしに根付いた和菓子文化
江戸時代の菓子文化研究家・高橋明子氏の著書『古典菓子の系譜』によれば、当時の庶民にとってカステラは「一生に数回食べられるかどうか」という特別な和菓子でした。そのため、初めてカステラを口にした際の感動を日記に記す人も少なくなかったといいます。
また、カステラの普及と共に、より手軽に楽しめる「カステラ風」の菓子も生まれました。例えば、カステラより安価な材料で作られた「蒸しカステラ」は、庶民の間で人気を博した江戸の和菓子でした。
こうして、長崎から伝わったカステラは、日本の風土や食文化に溶け込みながら、独自の発展を遂げていきました。高級菓子から庶民の特別な日の和菓子へと広がり、日本の菓子文化に深く根を下ろしたカステラの歴史は、異文化との出会いから生まれた日本独自の食文化の豊かさを今に伝えています。現代の私たちがカステラを楽しむとき、そこには400年以上の歴史と、数多くの人々の思いが詰まっているのです。
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